金たぴのぶろぐ

理系大学院生のつぶやき

友達

「友達」とは何だろうか。

私にとっての友達とは、何のためらいもなく、どんな話題でも話せる人だ。一緒に楽しく話せる、というだけの人は友達とは思わない。

 

4年制大学を卒業し、大学院生活が始まって1ヶ月が経過しようとしている今、これまでの大学生活を振り返ってみると友達と呼べる人は(彼女を含めなければ)1人もいない。

 

私が友達を作るのが苦手というのも勿論あるが、大学で友達を作るのは難しいように思う。

 

中学生・高校生の時は、1日の大半を過ごす場所は学校だ。塾や習い事がある人もいるかもしれないが、殆どの人にとってのメインのコミュニティは学校であると思う。朝から夕方まで拘束されるのだから当然だ。

そのため、1日の中で一番喋る相手は、家族を除けば学校の人、さらに言えば同じクラスの人ということになるだろう。

 

私は中高一貫校に通っていた。高校から入学する人はいないような学校だったので、クラス替えはあるものの、200人弱の人たちと6年間一緒にいた。

6年間を過ごす中で、気の合う人、合わない人が生まれてくる。気の合う人とは毎日話すようになり、相手のことを更に知るようになり、その上で本当に気が合うなと思ったり、やっぱり気が合わないなと思ったりもする。

そういったふるい分けを6年間無意識のうちに行った結果、本当に友達と呼べる数人が定まる。人によっては数十人、という場合もあるかもしれないが、私の場合は数人だった。

しかし数人ではあるが友達だと思える人ができたのだ。

 

では大学の場合はどうか。大学生が1日の大半を過ごす場所は大学かというと、そうではない。

 

大学生は中学生・高校生の時に比べて、遥かに多くのコミュニティに属している。大学のクラス、サークル、ゼミ、アルバイト…等々。全てのコミュニティにあまり偏りがなく所属し、期間も4年間と短い。コミュニティによっては3年間、2年間…と短いものもあるだろう。

 

このように短い期間内では、先程述べた「ふるい分け」ができない。ふるい分けを遂行するには、相手が自分にとっても相手にとっても最もメインのコミュニティに所属している人間である必要があり、かつ6年間といったような長期間が必要だ。

 

そのため、私は大学生活の中で「友達」と呼べる人を作ることはできなかった。

 

以上、さも一般論のように聞こえた部分もあったかもしれないが、あくまでもこれは全て私の場合の話だ。

大学生活の中で私の言う意味での「友達」を作ることができる人がいたら、私はその人のことを尊敬する。

年賀状

これは私が高校生の時の話だ。

 

高校2年生の時の年明け、私の元に一通の年賀状が届いた。差出人は私。受取人は私がよく知る友人(以後友人Aとする)。

 

思考が一時フリーズする。差出人、自分?

というのも、その年賀状の差出人の欄には手書きで自分の名前が書かれていたが、私の字ではない。私は自分でこの年賀状は出していないのだ。

 

まず、なぜ差出人が自分の年賀状が自分に届いたのか。理由はすぐにわかった。切手が貼られていなかったのだ。年賀状の表側に、「切手が不足しています」と書かれていた。

 

では自分の文字で書かれていないというのはどういうことか?

年賀状の裏側には、こう書かれていた。

「この前貸したエロゲ、どうだった?」

 

ここで全ての状況を理解する。こんなことをする人間は一人しかいない。私の別の友人(友人Bとする)が友人Aに向けて年賀状を送ったのだろうと察した。

 

まずわからない人のために説明すると、エロゲとはエッチなゲームのことである。友人Bは、エロゲに精通していた。

届いた年賀状に書かれていたのは私の文字ではない。よってこれは誰か他の人が書いた年賀状。じゃあ誰か。上の情報から友人Bだと推察した。

 

その時の私の理解はこうだ。

友人Bは、年賀状を利用して私に辱めを受けさせようとしていた。だが、ただ私に卑猥な内容の年賀状を送るだけではつまらない。そこで私の名前で友人Aに年賀状を送り、わざと切手を貼らずに私の元へその年賀状が届くようにした。私の親が郵便受けからその年賀状を受け取り、裏側を見たら

「え、自分の子供(私のこと)、友人にエロゲなんか貸してんの…」

となるだろう。ここで友人Bの企みが果たされる。

実際のところ、この年賀状を郵便受けから受け取ったのは私の兄だった。エロゲ貸してんのかよ…みたいな反応をされたため、必死に弁解した。

 

説明するまでもないだろうが、この年賀状の送り方、犯罪行為である。新学期が始まったら、友人に

「企みは面白かったけど、犯罪だぞ」

と言うつもりだった。

しかし実際には、私の理解と少し違うところがあったらしかった。

 

友人Bは、切手をわざと貼らなかったのではなく、素で貼り忘れていたのだ。

友人Bの本来の企みは、友人Aに私の名前で卑猥な年賀状を送ることで、私のことをやばい人間だと思わせようとした、というものだった。

 

友人Bの本来の企みは失敗に終わったが、そのおかげでその企みはより高次元なものへと進化した。

 

素で忘れていたとはいえ犯罪行為は犯罪行為なので手放しで感心できたものではないが、辱めを受けたことによる憤りよりも、そんな手口があったのかと感心する方が先行してしまった。

発言の背景

私はある商業施設でアルバイトをしている。そのアルバイトの業務として、2〜3時間に一度レジ金チェックというものがある。レジに登録された金額と、実際にレジに入っている金額が合っているかどうか確認するという作業だ。

 

紙幣と硬貨の数を数えるだけの作業であるため、別段特別な能力は必要としない。しかし電卓で計算するか、暗算で計算するかということになれば話は変わる。難しい計算ではないとはいえ、計算間違いをしてはいけない場面で暗算するというのは、ある程度の計算力を必要とするのだ。

 

ある時私がアルバイトをしていると、パートのおばちゃんが愚痴をこぼしてきた。曰く、レジ金チェックの際、ある学生から

「僕は計算力が低いので、暗算ではできないんですよ」

と言われたと。それが、

「イヤミにしか聞こえんかってん」

と。

 

その学生は、私と同じ大学に通っていた。私の通う大学は、日本国内では名の知れた、所謂名門大学である。故に先ほど述べた学生は、世間一般から見ると「頭が良いはず」の学生であるということになる。

 

そういった背景を踏まえると、先ほどの発言、「僕は計算力が低い」はどのように捉えられるか。恐らく多くの人が「イヤミ」だと思うだろう。頭が良いのに計算力が低いとは、如何なることか、と。

確かに軽い気持ちでしていい発言ではない。だが私は、この発言を一部擁護したい。

 

名門大学に通う人間は、世間一般と比べると賢い。だが皆同じように賢いかと言われると、否である。「賢い」にはランクがある。賢い集団の中に身を置いている者として、それを顕著に感じる。その集団の中でもなお賢い人というのは、講義内容等の理解が本当に早く、頭がキレる。毎度どうしてこんな解法を思いつくのか、という方法で問題を解いていくその姿を見て、「この人には敵わない」と思い知らされる。そういう状況になった時、私は「自分ってあんまり賢くない」と感じる。井の中の蛙が大海を目の当たりにし、あまりの広さに絶望している状態だ。

 

話を本筋に戻すと、「僕は計算力が低い」という発言は、私と同じように大海を目の当たりにしてきたために出てきたものであると思う。計算力が低いというのはイヤミなどではなく紛れもなく本心なのだ。繰り返すが、イヤミと捉えられる可能性が十分にあるため迂闊にしていい発言ではない。

 

だが、賢いはずの人間が「自分は頭が悪い」と発言していた時、こういった背景もあることをお伝えしたい。